実家には私が幼い頃使っていた、”P”の消えかけたPUMAのマグカップが食器棚に並んでします。テレビ台には当時すでにぼろぼろだったモノに、更に私がシールを貼りたくってぼろぼろにしたテープディスペンサーが置いてあります。
実家には年に2回戻る程度でしたが、そのたびに私はカップやディスペンサーを眺めながら”買い替えたら?”というのが口癖になっていましたが、私の口癖を聞くたびに父は”使えたらいいねん”と言うばかりでした。去年の2月、新型コロナウィルスの影響で移動制限がかかる中でしたが、具合が悪いということを聞いていたので、半ば強引に実家に帰りました。目を見て話すのは照れくさかったのだと思います。やはり私はマグカップやディスペンサーを眺めながら”買い替えなよ”と言うのでした。
それから程なくして父は亡くなりましたが、モノを大切にしていただけではなく、私や家族との思い出を大切にしていたことに気づきました。
父がなくなる数日前、一通の問い合わせメールが届きました。それはコピー&ペーストを繰り返した軽薄な営業メールではなく、どこか不器用で、でも誠実で、困っていることがよく分かる内容でした。有限会社バサラの工藤さんとはその後6月の中旬、緊急事態宣言が明けた頃にお会いしました。
普段は営業なんてされないんでしょう、緊張した雰囲気を崩さないまま、工藤さんは今の縫製工場の事情を話してくれました。後に調べましたが、日本で消費される予定で生産されるアパレル品は約33億点、そのうちの98%は海外製、日本製はわずか2%しかないそうです。また、1990年からの30年間で日本の縫製工場は10分の1に数を減らしてしまいました。
私たちには少量多品種の制服を要望されるお客様が多くいます。もちろんそれらは全て国内の縫製工場にお願いをしているのですが、このままだと10年後、私たちは仕事を続けることができなくなるかもしれません。私たちはバサラさんに仕事を出すことを約束しました。
しかし物事はそんなにうまくいかないもので、工藤さんの工場にちょうど良い仕事はなかなか見つかりません。と言うのも私たちUNIX TOKYOも大きな苦境に立たされ、仕事が激減していたためです。
申し訳ないなという気持ちを抱えながら、一年がもうすぐ終わりを迎えようとしていた頃。生地商社の株式会社サンウェルさんとの商談で、ふと気になり “ところで、サンウェルさんでは残反って出たりするんですか?”と質問をしたところ、“そりゃ生地屋なんで大量に出ますよ”と教えてもらった時に、目の前でカラフルな残反がつぎはぎされ、一枚のエプロンに仕上がる映像がはっきりと想像できたのです。
私たちがエプロンのブランドを立ち上げれば、在庫をすることになりますが、定期的に仕事を出すことができます。また、エプロンであれば特別なミシンを要しないし、納期も成り行きでいいのでバサラさんが他の仕事を受けても支障が出ません。と考えたのは私ですが、実際に製品にしたのはスタッフです。
大量にある残反の山の仕分けや色合わせに骨を折り、上がってきたサンプルに目を輝かせ、慣れないロックミシンに四苦八苦しながら愛情を込めて3社で作った世界に一つだけのザンタンエプロン。
願わくば、このエプロンが誰かの手に渡り、もう使えないくらい、ぼろぼろになるまで愛されて尚、”まだ使えるから大丈夫”と言ってもらえれば、これ以上に嬉しいことはありません。
願わくば、このエプロンが誰かの手に渡り、もう使えないくらい、ぼろぼろになるまで愛されて尚、”まだ使えるから大丈夫”と言ってもらえれば、これ以上に嬉しいことはありません。
ザンタンエプロンのブランドについてはこちらよりご覧ください
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