小口 大介 フリーランスプロデューサー

憧れの背番号10

#02

2020.07.03

ユニフォームを着る ということがこれまでの人生で殆どのないのだが、小学4年から6年の3年間、真正面から向き合っていた少年期のよどみなき想い出が、新緑の木々や柔らかい日差し、適度な湿度を含んだ風の匂いと共に今も心の中に蘇る。

札幌の隣町、当時人口4万人の小さなベットタウンで育った。北広島(約40年前は札幌郡広島町)という地名は明治初期に広島県からの入植者が開墾をしたことに由来する。その小さな町に「カープジュニア」という地域ごとに分かれた少年野球のチームが存在していた。御察しの通り、「広島東洋カープ」インスパイア系の少年野球チームで、小学校の学区毎とに「大曲カープジュニア」、「東部カープジュニア」など計8チームで構成されていた。

当時は子供の数も多く、僕の家の周りにはたくさんの子供たちで溢れ、毎日、誰かの家の前に集まり、歳や性別に関係なくポコペンやケンケンパをする声がそこら中に響き、それが生活の象徴だった。9歳の少年には年上のお兄さんたちみんなが入っている「若葉カープジュニア」に入団することがステイタス。水色に黒の縦じま、オレンジのアンダーシャツとストッキングそしてキャップはもちろん赤に濃紺のCが刺繍されているあのキャップ。それを身につけて、セドリックの様に角ばったツインライトのジュニアスポーツ自転車の後部荷台の脇に、竹ヤリ族車の如くバットを差し込んで、ホームの南町グラウンドに通うお兄さんに羨望の眼差しを送っていた。

その年の冬は特に長い冬だった。大好きなスキーに出掛けてもリフトに乗っているときは常に「若葉カープジュニア」を想う。「早く春になれー」。「早く春になれー」。

昭和57年 春 ついにその時はやってきた。入団式の三日前に町で唯一のスポーツ店「スポーツYOU」のおじさんがあのデサント製の水色のユニフォームを届けてくれた。ブカブカなユニフォームに袖を通し、腰ベルトを一番奥の穴で止めてもまだずり落ちそうなズボンはとてもだらしない格好だったが、それでも鏡に映る自分が誇らしかった。

それまで半径150mが遊び場だった少年の世界は半径500mに広がり、見える景色が変わった。その景色の中で途轍もない光を放っていたのが「背番号10」をつけた島崎君の背中だった。初めて「チーム」と言うものを認識した。10番はキャプテンナンバー。その背番号だけはユニフォームの生地を正方形に切り取り、その年のキャプテンが自分の背番号の上に縫い付ける仕組みである。試合開始に行う相手チームと行う戦いの挨拶でまず最初に声をあげるのが10番。反撃の狼煙をあげる時にベンチ前で行う儀式の様な円陣でまず最初に声をあげるのが10番。少年はいつも外からこの10番を見ていた。10番になりたくて、練習では人一倍声を出した。人一倍走った。人一倍球拾いをした。

2年後の晩秋の納会で、正方形に切り取られた「背番号10」を受け取った。自分がどんなキャプテンだったかは分からない。その年の戦績も特別良い戦績ではなかった様な気がする。ただ、円陣の真ん中で枯れるほどの声を出したことは覚えている。

コロナ自粛で、いつもより早めの夕食を終え、息子とTVを見ている時に彼が言った。今日やったサッカーのゲームで言ってたらしい。「キャプテンは命令をする人じゃなくて、みんなを励まして、みんなの為に一生懸命頑張る人なんでしょ?」

そこにはハッとした自分が居た。